大山町の宮内は、天神ライン上にあるだけで、天皇が居られた所だと考えていいことになりますと前回考えました。
宮内の西にある岩塚古墳(石馬谷古墳)が、神武天皇の祖父にあたるヒコホホデミのお墓ではないかと「宮内の前に、検討を加えました」
天神ラインの上にある遺跡のうち、宮内の次にあるのが、「高千穂」です。精しくは、その時にしますが、此処は、天照大御神の孫の瓊々杵命が、高天原から降臨された所となっています。
さて、内宮は誰が住んでいた宮城かと云いますと、神武天皇ではないかと考えています。
島根半島の判る地図を用意してください。
天神ラインをもう一度、掲載します。
日ノ御碕―---粟島—佐陀川河口—小波浜—上淀廃寺--岩塚古墳---宮内(西伯郡)—高千穂(東伯郡)—岡益・梶山古墳—出石-―天座—皇大神社---金海(任那)
境港の北に、島根半島にある高尾山の一つがあります。これは、隠岐にある高尾山と東経が同じです。目印にされた山です。その山の南の麓に「日向」があります。ここは、神武天皇と兄の五瀬命が、東征に出かける時の港だと考えています。どれぐらいの軍隊を率いて出かけたかは分かりませんが、結構多かったのではないかと思っています。兵士が多いほど、食糧の補給が必要です。阿岐国の多祁理宮で七年も過ごしたのと吉備の高島宮で八年も費やしたのは、食糧の確保に時間がかかったのではと推察しています。
船はどれだけ用意されたか判りませんが、その船を係留しておくには、十分の広さがあります。
地図をご覧ください。弓状に延びた半島は、神武天皇が出発する頃、紀元前85年頃には、無かったと思います。
上の天神ラインに書きました〔粟島〕はあったと考えます。ここには、大国主神が、全国に稲作、絹の生産、薬の普及に歩いた時の仲間の少名彦名命が祭られた神社があります。
弓状に延びた半島は、私の持っている地図には、半島名は書いてありません。紀元前後の頃には、半分ぐらいはあったのではないでしょうか。
そうしますと、弓状にはなっていなかったことになります。半島の東は、弓ケ浜と書いてあり、(夜見ヶ浜)と書いてあります。弓状にはなっていなかった頃に、弓ヶ浜とは言いませんから、その頃は、夜見ヶ浜と呼ばれたのでしょう。夜になると、この半島が、際立って見えたのでしょう。高尾山から見えたのでしょうか。大山からも見えたのでしょうか。
いくらでも、想像は膨らみます。
宮内(西伯郡) は伯耆の国です。想像は膨らむのですが、伯耆の国に、神武天皇が居られたという証拠は、なに一つ残っていません。
次回は、このことについて書いて見ます。


by kawach-kazan
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